スタッフブログ
2017-11-21 09:29
真田幸村ゆかりの地 九度山・真田ミュージアム
こんにちは、SNS担当の田上です(*^^*)
先週からぐんと気温が下がり、すっかり寒くなりましたね。
木々も色づき紅葉狩りにお出かけする方も多いのではないでしょうか??
ここ橋本・伊都地方では「高野山麓世界遺産アクセスバス周遊キャンペーン」が実施されていますね♫
沢山の見どころの中から、今回は「九度山エリア」にスポットを当ててお届けしたいと思います(=゚ω゚)ノ
古くから高野詣の玄関口とされ、歴史ある昔ながらの町並みが残る和歌山県伊都郡九度山町
昨年の大河ドラマ「真田丸」の舞台となったことで一躍有名となりましたね(*´ω`*)
ここ九度山は、堺雅人さん演じる真田幸村(さなだゆきむら)がその生涯で一番長い時間を過ごした地です。
町中を歩いていると、あちらこちらにその足跡を感じます。
そんな真田幸村のことをもっと知りたい!
ということで、まず訪れたのは「九度山・真田ミュージアム」
昨年3月13日にオープンしたこちらの施設では今なお後世に語り継がれる
真田三代(昌幸・幸村・大助)の生涯を知ることができます(=゚ω゚)ノ
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立派なお屋敷のような門構えの美しい建物。
扉にはおなじみ真田幸村の旗印「六文銭」が施されています。
幸村と言えばこのイメージが強いですが、こちらの「結び雁金」も真田家の家紋なんですよ。
可愛い紋ですよね( *´艸`)
≪六文銭≫ ≪結び雁金≫
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エントランスに足を踏み入れると、真田三代が甲冑姿でお出迎えしてくれます。
朱塗りの武具は「赤備え」と呼ばれ、戦場で目立つ赤はごく一部の精鋭部隊にのみ限られていました。
赤には「誉れ」や「武勇」の意味が込められているそうです。
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では、順路に沿っていざ参りましょう♫
まずは物語の主役たち、真田昌幸(父)・真田幸村(子)・真田大助(孫)
真田三代を紹介したパネルからスタート。
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館内は
上田時代/九度山時代/大坂の陣/九度山異聞/真田伝説/十勇士伝説とエリア分けされています。
パネルや映像作品などもあって見応え十分!!
順を追って見ていくと、彼らが生きた戦国時代、真田家に起こった出来事などを
わかりやすく理解することができます。
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真田父子がここ九度山で暮らすきっかけとなったのは、1600年の関ケ原の戦い。
西軍についた昌幸・幸村は敗者となり、本来は切腹となる所でしたが
徳川方についた幸村の兄・信之らの嘆願により死罪は免れます。
しかし、徳川家康より配流(罪人を辺境や島に送る追放刑)を命じられることに…
配流先は高野山。
父子はしばらく蓮華定院に滞在しますが、当時は女人禁制で妻子と暮らせなかった為
麓の九度山へと移ります。
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14年に及んだ九度山での生活は史料に乏しく、その暮らしぶりは殆ど解明されていないそうです。
配流には幸村の妻子、さらに近臣の16名が従ったとされていますが、
実際は家来を100名ほど同行したと言われています。
幸村はここで嫡男・大助はじめ沢山の子宝に恵まれますが、その暮らしぶりはとても厳しく、
昌幸から息子達に生活費の工面を無心した書状が30通ほど残されています。
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そんな九度山時代に考案されたのが上田地方の紬技術を応用した「真田紐」
「真田の作った強い紐~♫」
という売り文句で、家臣達に行商させて生計を支えていたとも言われていますが、
世の動向を知りたかった真田父子にとっては諸国の情勢を探る為の良い手段だったのではないか?
と推測されます。
九度山エリアにはシアタールームがあり、映像からも当時の様子を知ることができます。
父と子の想いに思わず胸が熱くなりました(/ω\)
雌伏(しふく)=人に屈伏して従うこと。また、実力を養いながら活躍の機会をじっと待つこと
真田父子が九度山で過ごした14年間はまさに雌伏の日々。
しかし、その想い叶わず父・昌幸は病で亡くなります。享年65歳。
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昌幸の死から3年後、幸村の元に待ちわびた援軍の依頼がやってきます。
この時の戦いが「大坂の陣」
豊臣家からの恩義に報いる為、出陣を決意する幸村。
ちなみに、支度金として渡されたのは現在の貨幣価値で約7億5000万円!破格のスカウト料ですね。
監視の目をかいくぐり、息子・大助と共に出陣した幸村一行。
九度山からは130名、根来勢も含め約300名ほどが大坂城に入城したと言われており
諸説ありますが、九度山~橋本~河内長野のルートが有力とされているようです。
記録では10/9に出発して10日に到着…たった二日で大坂城まで!?
その脚力と体力に脱帽です(;゚Д゚)
この大坂の陣こそが、真田幸村、人生最後の大舞台となります
大河ドラマのタイトルにもなった「真田丸」は大坂冬の陣の際、幸村が大坂城の南外側に築いた
小さな砦(出丸)のこと。難攻不落のこの砦を前に徳川勢は退却。
真田隊が圧倒的に勝利し、その武名は敵味方に響き渡りました。
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翌年の大坂夏の陣では、講和の条件によりこの出丸等が取り壊され大坂城は本丸だけの状態に。
劣勢の中、幸村は徳川方の大軍と交戦しながらついに家康本陣への突入に成功!
あと一歩で家康の首を取れる所まで迫るのですが…討死。享年49歳でした。
幸村の子・大助は父の命により豊臣秀頼の元へ。大坂城の落城後、秀頼らと共に切腹。
その短い生涯を閉じます。
悲しい最期です。でもそれが武士の本懐というものなのでしょうか。
合戦の様子は展示されている「大坂夏の陣図屏風」に生々しく描かれており
「大坂の陣合戦解説動画」では各武将の陣地の動きがCGで図解されていて、
当時の戦況が詳しく説明されています。
幸村と大助のエピソードも盛り込まれ、必見の内容です。
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不遇の状況にあっても武士としての誇りを捨てず、いつか来るその日の為に備えていた父と子。
14年という長い時間の中でも決して消えることのなかった心の炎。
一体どんな気持ちで過ごしていたんだろう…なんて、いつしか感情移入している自分がいて驚いたのですが、
ここに来た人は少なからずそんな気持ちになるのではないでしょうか??
真田屋敷を模したからくり部屋はまるでその当時にタイムスリップしたかのよう。
リアルな仕掛けがあちらこちらに…是非、実際に体験してみてください。
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「日の本一の兵(つわもの)」と讃えられる真田幸村
その魅力について副館長の中野さんがおっしゃっていたのは武士としての義を貫く潔さ
次男として生まれ、家督を継ぐことができなかった幸村
人質になった機会に直江兼続、大谷吉継、石田三成、豊臣秀吉らから多くを学びました
そして、徳川家康が最も恐れたと称される父・昌幸からは、軍略だけでなくその志をも受け継いだことでしょう
幸村と戦った武将の多くがその忠勇に敬意を表したことに加え
主君に命を捧げ最後まで戦い抜いた姿は多くの人の心を掴みました
江戸時代には錦絵や軍記物として盛んに描かれ、ヒーローとして庶民の喝采を浴び、
その名は後世に永く伝わる事となっていったのです。
九度山町では戦前から、幸村の命日の5月に「真田まつり」が開催されており、
真田父子がこの土地の人々から今なお愛されていることがよく分かります。
九度山ゆかりのヒーロー、真田幸村。そして真田三代の軌跡。
今なお伝説として語り継がれるその理由を、ここに来て感じてみてください♫
館内はとても見やすく、大人も子どもも一緒になって楽しめる見どころたっぷり。
歴史ファンならずともお勧めの施設です(=゚ω゚)ノ
お忙しい中取材にご協力下さった副館長の中野さん、スタッフの皆様
この度は本当にありがとうございました(*^-^*)
次回は真田紐にスポットを当ててお届けする予定です。
九度山編、まだまだ続きま~す♫
★今回お邪魔した「九度山・真田ミュージアム」の情報はこちら★
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和歌山県伊都郡九度山町九度山1452-4
TEL:0736-54-2727
URL:https://www.kudoyama-kanko.jp/sanada/
開館時間:午前9時~午後5時(最終入場 午後4時半)
休館日:月・火曜日(祝日の場合は営業・翌平日休館)
入館料:一般、団体により異なる
駐車場:なし(周辺駐車場をご利用下さい)
★現在、特別企画展として「大坂の陣 豊臣方の武将たち展」が開催されています(~平成30年3月25日まで)
大坂の陣を戦った著名な武将たちにスポットを当てたこの企画展。
12月10日までは大坂城天守閣所蔵の伝真田幸村所用の甲冑【鉄二枚胴具足】が特別展示されています。
甲冑には♡の形のようなモチーフが。これはイノシシの目を表しており、火や悪霊から持ち主を守るという意味があるんだそう。
副館長さんから教えて頂いた豆知識です('ω')ノ
行かれた方は是非探してみて下さいね!この機会をお見逃しなく!!
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